『續日本紀』都亭駅山本驛の概要について  

  京都府京田辺市三山木地域は,弥生時代前期の田中遺跡・宮ノ下遺跡,後期
  の天神山遺跡・飯丘遺跡などがあり,木津川水系に恵まれた初期の水稲耕作
  地帯であり、その中に山本がある。
   巻第五の元明天皇和銅四年(711)条に
      「四年春正月丁未始置都驛 綴喜郡
山本驛 (以下略)」
  
とあり「山本驛」が記されている

  『京都新聞』記事 1998年7月11日

 
 これは奈良時代の和銅四年(711)正月、七道のうち南北に通じる古山陰
  (小路)・山陽(大路)併用道に設けられたことをあらわしている。
   山本驛は、平城京からの最初の駅となり、さらに西方は河内へ通じ、東方は
  木津川を渡って井手町から北へ通ずる東山道(中路)と、同じ井手町から北へ
  通する北陸道(小路)とも関連した水陸相兼ねた重要な都亭駅であった。
   都亭駅は、都と地方との交通を円滑にするためと、中央政府と地方との連絡
  を緊密にして中央集権統一国家樹立のための軍事を目的とした制度である。
  この駅制は官用交通のためのもので、築地で囲まれた駅には、駅馬・舟・駅
  長・駅子などを備え、駅馬・宿舎・食事などを供す宿舎の外、駅馬をつなぐ厩舎
  ・人馬の水飲場・駅子の控室や休養室・馬具や駅稲を入れておく倉庫があった。
  そして築地の入り口には「駅門」があり、建物は瓦葺きで塗り壁の寺院なみで
  あった。
   駅務は所属する駅子が奉仕し、駅長がこれを統轄していた。この「山本驛」は、
  公人が宿泊したり緊急の公文書を送る急使がいたので都の動きを察知する事
  が出来、都を防衛する重要な役目を担っていた。ここには「駅子」が住み「駅馬」
  を育てていて、交替で駅馬をひいて駅に勤務していた。また、駅長は、駅制にお
  ける「駅家」の長として駅務を主宰し、その地方の豪族が任命された。 
   現在この駅の中心となっていた所は、まだ明らかにされていませんが、最近の
  三山木駅区画整理事業に伴う発掘調査で駅と関連した施設の遺跡が発見され
  ている。
   また駅に関係する地名としては、道中・荒馬・芝・垣内・桜田などの地名が残り、
  馬につけていた駅鈴にちなむ「鈴」という地名が村絵図に記されている。
   昭和3年に三宅安兵衛の遺志で建立された「和銅四年設定 山本驛旧跡」と
  記した石標が、塔ノ島の公民館前にある。

  『竹取物語』”かぐや姫の里”京田辺” (その1)


    発行者:小泉芳孝(日本民俗学・郷土史家) kyoto japan
   「竹取物語研究」竹取の翁・かぐや姫 から発信しています。 

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